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週刊Neue Fahne

2014年12月22日号

管理職の責任を曖昧化させる「みんなで一緒に…」という発想

 事につけて「みんなで一緒に…」と唱える管理職がいる。悪気があってのことではなく、和気藹々とした職場状況や雰囲気を重視したいとの思いや、共同作業の重要性を意識した上でのことであろう。
 一方で、「みんなで一緒に…」との表現の中には往々にして、“責任を分散させたい”という意識が働くことも忘れてはならない。語弊のある表現になるが管理職が“責任を分散させたい”という「意識」を持つことは重要である。何故なら“責任分散”の発想は、リスク管理に直結するものであり、マネジメント力に長けている証左ととることもできる。

 しかし、リスク管理の発想からではなく心底から「みんなで一緒にやることが重要だ」と思っている管理職は、組織を束ねる能力の欠如につながる。気をつけなければならないのは、この意識が高じると責任の所在を曖昧にしてしまう危険性だ。この意識は本人の意図とは別に組織内でのマネジメント機能を衰退させることになる。
 この種の管理職に限って部下に対して、実質的に「付き合い残業」を暗黙的に強要したりもしていることに気付かないケースが多い。もっとも、この種の管理職は「付き合い残業」に対しても“全員の仕事が終わるまで全員が欠けることなく、みなでサポートする団結した職場”と映るものだ。

 一般社員は無意識に自らの“責任の所在”を曖昧にしたがるものである。直裁にいえば何事においても職場で発生している事柄について、自ら“主体的には関わりたくない”という心理も働くものだ。そして「みんなで一緒に」という表現には、「自分は」ないし「自分が」という主語を曖昧にしてしまう不思議な魔力が潜んでいる。つまり、責任の所在の分散化を作り出すのに非常に都合の良い表現なのだ。
 例えば、会議などである種の問題解決の課題が議題になったとする。その際に本来であれば原因を究明し問題点に対して分析して改善をしていかなければならない。時には特定の個人に対する批判や注意喚起を含むことさえある。しかし、こうした行為は組織を構成する一人ひとりにとっては、非常にストレスがかかる行為でもある。まして、常に全体に対して方向づけをする管理職には、部下への批判や注意喚起大きな心理的負荷がかかる。

 この心理的負荷やストレスを回避したがる管理職は、何事に対しても「みなで…」という言葉でお茶を濁し結論を先延ばしにする傾向がある。もちろん、この結論の先延ばしに反対する者はいない。何故なら結論が曖昧にされることで、「誰が」「何を」「どのように」という事柄が抜け落ち、実行する主体も曖昧にすることができるからだ。
 何よりも“みんなが責任の所在”となり、物事が曖昧になるからだ。かくして、未解決課題は明確に処理されず課題は残ったまま堆積されていく。

 管理職は決して責任の所在をあいまいにさせてはならない。仮に部下が失敗をしたならばその原因をしっかりと究明し、個人として正すべき点をしっかりと指摘し、組織として改善すべき点と峻別させていかなければならない。
 何かにつけて「みなで…」などお茶を濁していると事の本質を見誤り、「寄らば大樹の陰」意識が強く、一人ひとり責任が不鮮明な烏合の衆の愚かな集団を再生産することになってしまう。そして、何より管理職自身の責任の所在を曖昧にしてしまうことになる。

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