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週刊Neue Fahne

2020年07月20日号

分岐点に立つ覚悟-8- 「他責意識」と「依存意識」の払拭

企業組織での働きに限らず、すべからく「ぶら下がり意識」は、他者への「依存症」と「責任転嫁」としてあらわれてくる。例えば、「国は何もしてくれない」「会社は何もしてくれない」「原因は行政の無策にある」「会社の危機は経営者の責任だ」という具合に「依存」と「責任転嫁」は尽きないものである。
  もちろん、すべてにおいて「自己責任論」を展開しても意味がない。むしろ危険でさえある。何故ならば「自由と責任」は表裏の関係だからだ。失政や失策を批判してその改善を促していくことは、否定されるべきものではなく当然のことだ。他者を批判するとは、同時に自らの行為・行動を振り返る行為と一対でなければならない。その批判する側に自らが値するか否かを自問自答することが重要だ。なさもなければSNSへの無定見な発信や安易な同調と同じになる。

 企業組織において「ぶら下がり意識」と健全な批判精神との分岐点は、自分自身が当該組織で果たすべき役割を果たしているか否かである。いつの時代にも往々にして自らを棚上げして、「会社が…」「上司が…」「他部門が…」という発言が頻繁に交される。こうした発言の根底には、自分は「上からの指示に対する忠実な実行者に過ぎない」という発想が潜んでいる。
  さらにいえば、この種の発想には、いつでも「他責」という思いが潜んでいる。しかし、「他責」意識のままでは、没主体的にしか企業組織に関わってこなかったことを意味していることになる。つまり「ぶら下がってきた」という証明をしているようなものである。「ぶら下がり意識」は自らの行っている業務に対して「責任をもって取り組んでいない」ということでもある。

  新型コロナウイルスの蔓延以降から「ニューノーマル(新常態)」という言葉がはやり始めている。この言葉は2008年のリーマンショック以降に「いままでの常識が大きく変わる」という意味で用いられたといわれている。今日、日本においてにわかに用いられているのは、単に新型コロナウイルス対策の一環としてではなく、従来からの日本企業の働きの現場環境の常識を大幅に転換する必要性に迫られているからに他ならない。
  ここ数年の「働き方改革」は、ともすると“働く者の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現”という側面が強調されてきた。そして、ある者は「働き方改革」を自分勝手に解釈し、あたかも「一人ひとりの働きが楽になる」とでも解釈してきた。しかし、「働き方改革」の本質は、ある意味で究極的な「自己責任論」を強いることでもある。そして、新型コロナウイルスは「ニューノーマル(新常態)」を強調することで、働く現場の強制的な転換をもたらすことになった。

「ニューノーマル(新常識)」の下では、一人ひとりの働きにますます自立した働きが求められることになる。「他責」による「ぶら下がり意識」に留まっているならば、いつまでたっても自律した働きをしていくことにはならない。こうした発想では自らの働きに自信を持つことなく、いつまでも誰か(企業組織)に「働かされている」という意識に留まっていることになる。
 企業組織での働きは、唯我独尊で自分一人が行うものではない。意見の異なる者であったとしても共通の目的に向かって協働する働きが求められる。しかし、誤解してはならないのは「協働」するということは、なんでもかんでも「みんなと一緒」という意味ではないということだ。一人ひとり自律した働きがなければ、決して「協働」にはならない。自らに自律した働きの意識を持たない者は、会社組織にあっては単なる「お荷物」的な存在になってしまうことは必定だ。

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