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週刊Neue Fahne

2022年01月17日号

己の働き方を再考察 −1− 人生に仕事を位置づけ、働きを自問自答する

己の働き方を再考察 −1− 人生に仕事を位置づけ、働きを自問自答する
  コロナ禍を通して従来の働き方の在り様が大きく変化してきた。オフィスワーカーにとっては仕事の場所的空間がリモートワークに移行することなどで、これまでの働き方の是非が問われるようになってきた。一方でリモートワークが可能な職種と不可能な職種との隔たりや格差の存在も顕在化するようになってきた。さらには日本の労働生産性の低さや賃金水準の低さも改めて喧伝されるようになってきた。
  総じてコロナ禍はこれまでの働き方の再考を一人ひとりに迫っている。これは単に様々な流行りの言説に飛びつき、これまでの働き方を否定すれば事足りるという意味ではない。敢えて「人は何のために働くのか。自分は何のために働くのか。誰のために働くのか」という今さら感があるとはいえ自らへの“根源的な問いかけ”が必要になってきている。

「何のために働くのか」との問いかけに対し、躊躇うことなく「生活のため」「収入を得るため」と答えるのは当然であり、何ら否定されるものではない。自らの労働の対価として報酬を得ることで自らの生計を豊かにしたいとの思いは至極当然のことである。今よりも良い生活を目指していくという考えは、働くうえでのメリットでもあり大きなモチベーションにもなるだろう。
 ただし、これは社会全体が「今日よりも明日、今年よりも来年が良くなる」という成長軌道が保証されていたかに思えていた状況の下で成り立つことができた。しかも大多数の者がこうした思いを共有することができ、相互に享受することもできると思っていた時代背景において大きなパワーを発揮してきた。

 日本社会には四半世紀以上にわたり「失われた〇〇年」と形容されながら、ある種の鬱屈した雰囲気が蔓延し続けてきた。鬱屈していたが故に各種の矛盾や問題点が沈殿化していた。そして沈殿物の上に漂う上澄み液のような社会状態であった。コロナ禍はこの沈殿物を一気に撹拌させて社会を矛盾や問題点が入り交じり混濁した状態にする契機となったことだけは確かである。とりわけ働きの場においてはこの傾向が顕著になっている。
「働き方改革」と喧伝され残業時間の削減や同一労働同一賃金、高齢者の継続雇用、副業の解禁、さらには「人生100年時代」など、これまでの働き方を問い直すかのような様々な施策や法令改正がなされてきた。これらは沈殿物の中に埋もれていた雇用システムの矛盾を顕在化させ、働き方についての意識混濁を生むことになった。仮に働く者一人ひとりが自らの働きについて、従前の就労意識のまま過ごしているならば、混濁の中で右往左往し窒息することは必定となる。

  これまでの日本の雇用システムの基本モデルは一度就職した企業において一定の年齢で家族を形成し、生計を営みながら子どもを育てあげて定年を迎えることを基本モデルとしていた。このモデルの下では、企業での自らの働きを通して「どのようになりたいのか」「何を得たいか」などを意識的に追求することなく、大過なく日常業務に励むという意識が重視されてきた。このため、単純に上下関係や年功も珍重もされカバナンス機能の一翼となってきた。今もこの意識から抜けられない者も多い。しかし、今日この種の就労意識は明らかに通用しなくなってきている。
  多くの企業で起こっている早期退職にともなう大規模な人員削減の流れは、この種の就労意識のままでの働き方を許さないことの証左でもある。つまり、自らの働きと企業組織での働き方を一体化して捉えることができなくなっている時代であるということだ。今後はますます自らの働き方の持つ社会性と責任が問われることになるだろう。これは陳腐な自己責任論とは全く異なり、自らの果たすべき役割の確認をしながら己の働きを通して、責任をもって自らと向き合うということだ。つまり、年齢にかかわりなく自らの人生のなかに仕事を位置づけ、働き方の在り様を日々に自問自答していく姿勢が問われるということだ。

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