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週刊Neue Fahne

2023年06月26日号

マネジメント行動の再検証-7-雇用制度の変化過程で働く意味を再考

日本では「失われた30年」と形容されて久しい。各種の調査から見えてくる日本の姿は、もはやかつてのような「経済大国」ではない。株価がバブル期の再来と喧伝されているが、決して日本経済の実力を反映しているわけではない。グローバルサウスの台頭しかり、もはや日本がG7の末席に連なっていることさえ危ういのではないかと揶揄もされている。
  なによりもこの間、日本社会の土台を形成してきた雇用制度も既に制度疲労が激しく、なし崩し的に大きな変動期に入っている。雇用制度についてさまざまな問題点や矛盾が語られてきたが、そもそも論として「入口」である新卒一括採用が正規・非正規雇用の温床の一つであることは確かだ。同時に一社を勤め上げた後の定年も本来の「出口」としての機能を失い始めている。

  現在、日本の雇用制度を巡っては役職定年制度、定年再雇用制度、高齢者雇用などの論議が喧しく展開されている。マスコミでは一応にこうした議論をこの年齢に差し掛かった者の悲哀を中心に扱いがちだ。一方で「Z世代」と総称される若手・新人社員による企業内での立ち振る舞いとの無意味な対比もなされている。
  総じて日本の雇用制度の先行きについての悲観論が蔓延しているのは事実だ。確かに雇用問題についていえば、日本の全就労人口の中に占める非正規雇用の割合は4割に近づき、現状の制度のままでは今後とも正規・非正規の格差は拡大するだろう。少子高齢化問題でいえば物流業界の「2024年問題」のように労働力人口の減少に伴う「〇〇年問題」も頻繁に発生してくることになるだろう。

  雇用形態の違いがことさらに問題とされているが、そもそも雇用形態に問題があるわけではなく、雇用形態に伴う「格差拡大」が問題なのである。厳密にいうならば雇用とは企業と従業員との間で結ばれる「契約関係」である。この関係性においては、いわゆる正規雇用者であっても「契約社員」であることに違があるわけではない。禅問答のようだがそもそも契約関係という雇用に「正」と「非」という設定を持ち込むこと自体が問題なのである。
  働きの主体にとっては正規であろうがなかろうが、自らの将来に責任を持った働き方をしているか否かが問われるべきだ。そもそも正規だから「安定している」、非正規だから「不安定だ」と発想してしまうことが、自らの働きの意味付けを曖昧にしてしまうことにつながる。繰り返すが雇用形態のよる格差が問題なのである。社会全体に対して安全や安心を提供するための仕組み作りの課題と、雇用形態を混同してしまうのは誤りだ。まして、問うべきは自らのパフォーマンスであるにも関わらず、定年後の再雇用契約による賃金削減に憤る醜態を見せる中高年は論外でもある。

  今後とも日本の雇用制度は否応なく変化していくことになる。この変化のあらわれ方は個々の従業員にとって祖千差万別である。また、それぞれの生まれ落ちた時代によってもあらわれ方は異なるだろう。しかし、それを言い出せば切りがない。乱暴にいうならば死んだ子の歳を数えても意味がない。薄っぺらな自己責任論などではなく、また、社会全体で負わなければならない社会保障制度の充実問題を別として、問われなければならないことは、仕事に対して現在も過去も、そして未来も“主人公はあくまで自分自身である”という立場性の堅持だ。
  人は他人に自分の人生を託して生きていくことはできない。自分の将来に責任を持つためにも自らの働に意味付けを持たなければならない。「働くこと」とは、雇用形態や組織人か否かを問わず、自らの行動が周り(社会)に対して、役立っていることを実感していくことである。「働くこと」とは、自ら何かを成し遂げたいという意欲の表れであり、誇りをもって他者に自らの存在を伝えていくことに他ならない。そして「働くこと」とは、自らの成長に意味を持たせて人生を無駄なく過ごしていくことだ。

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