2025年06月09日号
「静かな退職」という風潮がはやっている。恐らく、いくつかの特長的な現象を誇張しているとも思われるが、「特殊性」の中に「一般性」が内包されているものだ。「静かな退職」の現象では、あくまで雇用契約上の職務範囲に従って仕事をするという姿勢であり、過剰な残業や自発的な奉仕的活動、昇進への過度な野心を求めないスタンスである。要は会社を辞める気はないが、与えられたことをそれなりに熟し、出世を求めることもしないということだ。
当然のことながらこうした風潮に対しての批判もなされている。その批判の論点は概ね次のようなものだ。曰く、「会社という組織に所属すること自体が価値である」、「企業組織では協調性・忠誠心・やる気が評価基準となる」、「そもそも新卒採用された者は将来的な幹部候補としての期待が前提で採用されているはずである」…。「静かな退職」に対する批判の根底には、「最低限しかやらない=やる気がない」ないし「成長意欲がない」という価値観があるのも確かだ。
「静かな退職」的なスタンスをとる部下に対して、管理職として果たしてどの様に対応するべきなのかという問題も設定されてる。対応策として先ずは「静かな退職=怠け者」ではないという視点が大切であるといわれる。つまり、「与えられた職務はきちんとこなしている」が「出世や追加の責任を求めない」部下に対し、従来のような「もっとやる気を出させよう」「もっと主体的に動くように」と迫ると、かえって摩擦や離職につながる可能性もあるということだ。
その上で管理職から見て「仕事はきちんとこなしているが、熱意・自己主張が乏しい」と映る部下に対しては、「結果」にフォーカスした評価を徹底し、仮に発言が少なくても仕事上の成果や品質で評価して、不必要に自己主張を強要することなく、ルーチンワークの精度・改善提案を促すようにすべきであると強調される。
管理職から見て部下の中には「仕事=労働力の提供」と割り切り、組織への帰属意識や関心が希薄な者もいる。こうした部下に対しては、不必要に同調圧力をかけずに「この組織で働く意義」「本人にとっての職場の価値」などの問いかけを通して、雇用契約書で明文化されていないものの、企業と従業員の間で相互に期待し合っている暗黙の合意(心理的契約)の確認作業が不可欠であるともいわれる。
確かに管理職にとって部下を熱意や情熱の大きさで評価することは極めて属人的なものに過ぎないとの自戒は必要だ。。同時にあくまでも自らに課せられているミッションに対して「着実に成果を出す」という事実だけを評価するという姿勢を堅持する必要がある。さらに組織に属している全員に対して同質の働き方や期待を求める必要はない。それぞれの職務範囲・成果・性格特性に応じてアプローチを調整する視点が必要となる。その上で管理職自身が、「昇進=成功」という固定観念から脱却し、あくまでも管理職は役割機能に過ぎないの認識を持つ必要がある。
喧伝されている「職務の範囲の中で働き、その範囲内で成果を上げ、それ以上のことはしない」という意味での「静かな退職」現象は、本来の「ジョブ型雇用」そのものである。従って、“雇用契約上の職務範囲に従って仕事をする”という姿勢は、「職務記述書(ジョブディスクリプション)」に基づいて仕事をしているのである。この意味で「静かな退職」と「ジョブ型雇用」は極めて親和性が高い。そして、「静かな退職」は、「ジョブ型雇用」の前提を忠実に体現した働き方と捉えることができる。そもそも日本では官民一体となった感のある「働き方改革」以降から「メンバーシップ型雇用」が批判され、温度差があるとはいえ「ジョブ型雇用」が指向されてきた。
ところが、いざ現場において「ジョブ型雇用」での働きを実践する風潮が生まれてくるとこれを批判する摩訶不思議な流れがあらわれている。こうした流れに対し、「ジョブ型雇用」の実践者たる「静かな退職」者は、「ジョブ型雇用を推奨しながら、働き方はメンバーシップ型を求めるのは都合がよすぎる」と映るはずだ。企業の側がジョブ型を掲げるのであれば、「静かな退職」的なスタンスも一つの健全な職業意識のあらわれに過ぎないと受け止める必要がある。むしろ、成果を上げているならそれで十分であるという割り切りも必要だ。問題なのは、与えられた役割を果たさないことであり、自己主張や出世欲のなさではないはずである。
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